第127回 藤沢(神奈川県藤沢市)→小田原(神奈川県小田原市)

平成24年3月16日 晴れのち曇り 33.9q 8時間30分

鴫立つ沢の春の夕暮れ

 江戸日本橋を発って3回目のウォーキング。江戸時代の平均一般男性は2回で到達するとされていた小田原宿へ、僕は3回で到着する予定です。それでも僕も毎回結構な距離を歩いているんですけどね。

 今回はいつもより歩き出すのが遅くなりました。いつもように朝、豊橋を始発の新幹線ひかりで出発したのですが、前回までは東京や新横浜までの乗車だったのに比べて、今回の新幹線は小田原まで。ということで静岡でこだま号に乗り換えたり、そして小田原からも在来線で藤沢まで行き、そこから小田急で1駅目の藤沢本町まで…と乗り換えがたくさんありました。藤沢本町を歩き出したのはもう9時30分。実に家を出てからすでに4時間も経過してからのウォーキングスタートとなりました。

          

 駅の辺りが藤沢宿の西端に当たるので、西へ向かって歩き出すとすぐにひっそりとした街道風情になります。小さな松並木もあり、そしてここら辺りの一番の名所は南湖左富士。旧東海道を西に向かって上京すると富士山は右手に見えるはずなのですが、進む角度の関係で富士山が左手に見える場所が2カ所だけあります。そのうちの1カ所がここ、千の川を渡る鳥井戸橋。建物が密集してしまっているおかげでなかなか左富士は見えないのですが、橋の上からはバッチリと眺められるはずです。

 …がしかし、今日は花粉のせいなのか、春がすみのせいなのか、やや曇っているからなのか、ほんのりうっすらと富士の山頂が見えるだけでした。撮った写真には何とか確認できるくらいの富士山頂が写っているので、確かにここから左富士を眺めたという証拠になると思ったのですが、よく考えたらこれ、左側を向いて撮ったという証拠はありませんよね…(笑)。でも確かに左富士なんです!!

          

 その先、馬入川を渡るといよいよ今回のウォーキング最初の宿場である平塚宿。桓武天皇の曾孫にあたる、坂東平氏の始祖、平真砂子(たいらのまさこ)がここで没し、その亡骸を埋めた塚があるため、「たいらのつか」→「ひらつか」となったとされる由来があります。それだけでも何だかちょっと怖いイメージがありますが、駅前には「番町皿屋敷」で有名なあの「お菊」の墓まであり、さらには宿場の西側には、かつて唐・新羅の連合軍に滅ぼされた高句麗の人々が逃げ込んで自害したとされる「高麗山(こまやま)」がその独特な姿を醸し出しています(写真右)。天気も急に暗く、曇ってきました…。

        

 平塚は僕にとっても少し思い出のある地名です。もうかれこれ25年近く前のこと。当時(中学1年生頃)、付き合っていたというか、お互い少し気になっていた女の子がいて、その子が転校してしまうという出来事があり、その行き先が平塚でした。その子とはその後、20歳過ぎの頃の同窓会で一度会ったきりですが、それ以来「平塚」と聞くと中学生当時のことを思い出します。今回のウォーキングも何となく四半世紀前のことを思い出していました。

 今回は足の調子も良く、ここまで順調に歩いてきたのですが、平塚宿の中頃から右足の付け根から太股あたりの筋がおかしくなってきました。何だか吊りかけているような感じ。やばいなぁ…と思いながら歩き続けていたのですが、やっぱり痛くなってきたので、ここで少し腰掛けて休憩をとりました。平日の平塚宿の旧街道。歩いているとゆっくり観察できない人の流れも、よくよく観察してみるとなかなか面白いですね。「あの人これからどこ行くのかな?」とか想像を巡らせてみるのも面白い。

 足の調子も復活し、それでも右足に気を遣い、時々手を当てながら歩き出しました。宿場を出て花粉症の季節にぴったりな名前の「花水橋(はなみずばし)」を渡ると、次の大磯宿へと続く「化粧坂(けわいざか)」。先述の高麗山に見下ろされた静かな街道で、松並木も美しい。かつて虎御前という遊女がその水で化粧したという言い伝えがある「化粧井戸」が道端に口を開けていますが、平塚宿の「お菊」の話がまだ頭に残っているので、ちょっと近付いてみるのもためらわれました。写真は撮ってみましたけどね…。何も写っていないことを祈っています。

        

 この化粧坂の街道沿いにある「車屋」という老舗そば屋さんで、昼食をとりました。そば&エビ天丼。店の構えに負けないおいしい食事を腹に詰め込んで、ウォーキングも後半に突入。予定ではこのあたりが今回のウォーキングの中間くらいのはずです。

        

 再び国道1号線と合流するといよいよ海が近付いてきた印象になります。JRの大磯駅を越えると、大磯宿の中心。海水浴場もすぐ近くにあり、説明板によるとここらが「海水浴場発祥の地」らしいです。何をもって「発祥」なのかは分かりませんでしたが…。道の左端には、京都の「落柿舎」、滋賀県の「無名庵」と並ぶ三大俳諧道場である「鴫立庵(しぎたつあん)」。ここは崇雪(そうせつ)が結んだ庵で、西行法師が三夕の歌の一つ「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」とうたったことでも有名な庵です。国道沿いにあるにしては非常に趣があって、静かで、しばし立ちすくんで見とれてしまいました。

          

 大磯宿には見事な松並木が残っています。伊藤博文やら吉田茂やらかつての名士たちの旧宅も点在しており、今回はここの松並木を携帯の待ち受けにしました。毎回ウォーキングで撮った写真の中でお気に入りの1枚を新たに携帯の待ち受けにし、見るたびに次のウォーキングに心誘われるようにしています。僕の地元の御油の松並木もすごいのですが、「歩く」ということに関してはきっちりと歩道が整備されている分だけ大磯の松並木の方が優れているような気がします。

               

 小田原宿まではあと10qほど。二宮町を越えるとようやく行政区は小田原市へ入ります。JRの国府津(こうづ)駅あたりでやっと視界に太平洋が入ってきます。潮のにおいはいつ嗅いでも旅の情緒を盛り上げてくれますね。夕方になり曇ってきているのが残念ではありますが…。この先が道標によると「江戸日本橋から80q」。そしてそこが「静岡まで100q」らしいです。さらにさらに僕の旅もスタートからの2900qポストがこの辺りになりました。まだまだ先は長いですが、いよいよ区切りの3000qがまた近付いてきましたね。

             

 そう言えば今回のウォーキングで気付いたことがあります。この地域の表札って、僕の地元の愛知県のものと違って「姓名」が両方書いてあるものが多いですよね。そして住所まで書いてあるものも多い。地元の住所に愛着(誇り)を持っているのでしょうかね。だとしたら何だかうらやましいです。さらに言うと、たまたま僕の歩いた旧街道沿いだけなのかも知れませんが、「椎野」「穣原」「剱持」の3つの名字が非常に多かった気がします。地元の名士一族なんですかね!? 帰りに小田原駅で買った海鮮物の会社も「椎野」という名前でしたから、あながち僕の予想も外れてはいないような気がします。

 ついでにもう1つ。通り沿いの表札に「剱持勇(けんもちいさむ)」という方を見つけました。「金田一少年の事件簿」に登場する剣持警部と同姓同名ですよね。「剱」という字がちょっと違いますが…。かっこいいですね!

 酒匂川(さかわがわ)を渡ると小田原の宿場も近くなってきます。川の向こうにはいよいよ次回のウォーキングで越える予定の「天下の険」、箱根の山々が見えてきています。時刻はもう5時半近く。日もとっぷりと暮れてきて、宿場の雰囲気も盛り上がってきました。残念ながら街道沿いのお店や休憩どころ、資料館や物産館ももう閉店してしまっていました。

        

 一日かけて歩いて、とうとう小田原駅へ到着。小田原宿は、江戸を発って上京する際に初めて通過する城下町宿場です。小田原城は北条早雲をはじめ城主は北条氏が中心でした。やはり源氏の本拠地「鎌倉」が近いからですかね…。時刻は午後6時ジャスト。あたりは完全に暗闇に包まれ、駅の入り口から眺められる小田原城は、その天守閣のシルエットだけがうっすらと暗闇の中に溶け込もうとしていました。江戸時代に生きていたら小田原提灯を手に提げて歩きたくなるような(実際は提灯は明け方の日の出前に使うものですけどね)、そんな小田原駅へのゴールでした。いいですね、こんな旅。

          

 今回は非常に燃焼しきった感じで、心地よく帰りの新幹線の乗客となりました。次回はいよいよ箱根越え。ま、「馬でも越える」ことができるくらいらしいですから、きっと大丈夫でしょう!



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