第128回 小田原(神奈川県小田原市)→三島(静岡県三島市)
平成24年4月13日 晴れのち曇り 38.3q 9時間50分
箱根八里は馬でも越すが、僕でも何とか越せました!
さて今回は天下の険、箱根越え。東海道歩きの一部には違いありませんが、ここだけは「ウォーキング」というよりは「登山」といった風情です。それだけに暑い季節を迎える前に通過しておきたかったので、まだ夏を迎える前のこの時季、たった1日だけの休日を使って実行することになりました。
豊橋を始発の新幹線で発ってもっとも早く小田原に着くのが朝8時30分。駅の構内をぶらついてお手洗いを済ませ、8時40分に城下町小田原を出立しました。近くにある高校の登校時間と重なってしまい、しばらくは高校生の波にもまれながらのウォーキング。前回の最後に夜の帳に沈んでいく小田原城を眺めましたが、まずはその小田原城を真下から桜とともに見上げるところから始まりました。
国道1号線に合流すると小田原城下をあとにして街道に入った雰囲気となり、いよいよ箱根路に差しかかったことを実感します。しばらくは右手に箱根登山鉄道、左手に早川、という景観を堪能し、早くも行政区は小田原市から箱根町へ。1時間ほどで箱根湯本に到着します。ここからは現在の国道1号線からは離れ、旧街道(現在は県道)に入ります。早川を渡る三枚橋がその起点。早川はすでに下流に近付いているといってもまだまだ気持ちいいほどの清流で、向こうの方には箱根湯本の駅が見え、ひなびた温泉街が素敵です。
ここからもういきなり上り坂がスタート。民宿やら学校やらお寺やらが左右に点在しますが、観光客と日常生活が溶け込んでいる風景っていうのは何ともいえずいいですね。もちろん僕も「観光客」の一端を担っているとは思うのですが、時々一般観光客から道を尋ねられたりすることもあるので、見る人から見れば「地元民」にも見えるのでしょうか。ま、平日の真っ昼間にいい年した男がTシャツ姿で歩いているのだから、それも仕方ないでしょうね。
この季節はまだ桜もしっかり咲いており、奥箱根は様々な植物で一杯。「奥」というだけあって本当に四方すべてが山に囲まれています。それでも所々に小さな集落があり普通の民家があるのを見ると、自分がいつも仕事をしている時間にもこういった所で僕の知らない時間が流れているのが何か不思議な感じがします。人間の存在なんてちっぽけですね。
この辺りは旧街道の中でも特にハイキングコースとして有名な区間でもあるので、時々歩いているお年寄りの集団に出くわします。結構な上り坂なのにすごいですよね。ペースはとてもゆっくりですけど…。どうやら話している内容から判断するとこの先にある畑宿まで歩くようです。さすがにこのお年で「箱根越え」は無いか…。
このお年寄り三人組が途中の観光案内所で「ここから畑宿までどのくらいあるかいの。昼前には着きますかね」と聞いてみえました。その案内所の方の返事「2qくらいかな。そんなに遠くはないけど、その歩くペースじゃ夕方になっても着けないよ」だとさ。ご老人たちも笑ってみえました。こういったやりとりって和みますね。
畑宿まで2qとはいうもののここからの2qは箱根東坂の最初の急坂「女転ばしの坂」が立ちはだかります。その昔(もちろん江戸時代だと思いますが)、あまりの急坂で馬に乗っていた女が振り落とされて死んでしまった、という言い伝えから付けられた名前だそうですが、正直、急坂とはいっても百戦錬磨の僕ならどうということないだろうと思っていました。しかしやはり箱根は箱根、天下の険と言われるだけのことはありますね。想像以上の傾斜の上り坂でした。目に見えて僕の歩くペースも遅くなり、足が重くなり…。こんな坂が今から何qも続くと思うと、果たして僕も本当に箱根宿に着けるのかどうか急に不安になってきました。
畑宿は小田原宿と箱根宿の途中にある「間の宿」です。ここは寄木細工(よせぎざいく)で有名な、本当に山あいのいい宿場です。長さで言えばほんの数百mほどのものなのですが、その西側のはずれに江戸から二十三里目の一里塚が立っています。道の両側に残っているのは戸塚宿の品濃坂に続いて2カ所目です。そしてここからきれいに残る石畳の道が始まります。僕の旅は基本的に車の通れる道を歩くのですが、この区間だけはちょっと石畳の旧街道に足を踏み入れてみました。
しかし舗装された道よりも歩きにくいんですよね。歩幅を石に合わせなくてはいけないので自分の歩幅で歩けないというか。ただ雰囲気だけは堪能しましたよ。何だか籠を担いだ雲助が通り過ぎていったような気がしました。もちろん本当に見えたわけではありませんよ。本当に見えたとしたらちょっと病気ですから。
石畳を歩き終えて舗装道に戻っても、次は橿の木坂(七曲がり坂)、時刻は昼に近付いていますが、まだまだ先が見えてきません。それにしてもこの坂はマジでつらい…。雲助は本当に立派です。籠を担いで、しかも中の客が傾かないように籠の傾きを調節しながら駆け上るのですから、大したものですよね。ついでに言えば「馬」も尊敬します。「馬でも越すが」なんて言ったら「馬」に失礼ですよ。
やっとのことで急坂からいったん解放されるとそこには見晴茶屋。はるか彼方の下方に歩き始めた小田原の街並みがぼんやりと見え、ここまで上がってきた標高差を実感することができます。ここでしばし休憩。昼食にはそばを食べました。本来ここは「とろろそば」が有名なのですが、残念ながら僕は「ネバネバしたもの」が食べられませんので、ただのざるそばにしました。
少しだけ元気を取り戻し、次は猿滑り坂。大きな坂はこれが最後のはずです。そう自分に言い聞かせてトボトボと歩を進めました。その先は少し平坦になった「笈の平」。ここには江戸時代初期から続く甘酒茶屋が今日も営業を続けています。観光客も結構いるのですがみんな自家用車やタクシーで乗りつけたもよう。「僕は君たちと違ってずっと徒歩で来たんだ」という誇りを胸に入店しました。季節柄、まだ熱い甘酒しかないのが残念でしたが、切り株の椅子に腰を下ろし甘酒をいただきました(もちろん有料ですよ)。「うっかり八兵衛」の気持ちが味わえましたよ。というか江戸時代初期から営業しているってことは、実際に八兵衛もこの茶店に立ち寄った可能性大ですよね。いや間違いなく八兵衛はここに立ち寄ったはずです!
あと少し坂を上ると、心霊スポットとしても有名な「お玉が池」。この先の箱根の関所を破ろうとした芸者の「お玉」が関所破りの罪で処刑され、その首をこの池で洗ったという言い伝えがあるのですが、そりゃこの話を聞いたら心霊スポットになりますよね。この日は真っ昼間なので「お玉」は現れませんでした…。ちなみにお玉は芸者のため通行手形を持っておらず、「出女」の厳しさを恐れて関所破りを敢行したのですが、当時、芸者は芸を見せれば関所を通れたのですよね。「芸は身を助く」ってことわざの出所はそこだという説もあります。
ようやく下り坂になり眼下には箱根宿の象徴である芦ノ湖が見えてきました。本当にびっしょりと濡れた汗がス〜ッとひいていくのが分かりました。時刻は1時30分。ここまでスタートの小田原から5時間かかりました。
芦ノ湖は天気が良ければ富士山が湖面に映って「逆さ富士」となります。この季節は風が強くなければ結構の確率で逆さ富士が見られるらしいのですが、残念ながらこの日は曇り空のため、実際の富士山を肉眼でかすかに確認するのが精一杯。とてもじゃないですが湖面に映る富士山までは見えませんでした。しかし、靄がかかった芦ノ湖はそれはそれで絶景です。
箱根といえばやはり「箱根の関所」。同じ東海道の「新居」、中山道の「碓氷峠」「木曽福島」と並んで厳しい関所として有名でした。特に「入鉄砲と出女」という言葉が使われ始めたのはこの関所が最初だと言われます。ま、江戸に一番近いですし、ここを通過したらもう江戸まで関所はないですしね。僕は「出男!?」なので簡単に通してもらえました。通過記念に関所の出店で「おやき」をつまみ食い(もちろん70円払いましたよ)して、今回のウォーキングの後半に入りました。
箱根駅伝のゴールとなる地点を横目に見ながら、箱根峠に向かって最後の上り坂である「向坂」に差しかかります。午後2時30分に県境の箱根峠に到着。ここから神奈川県を後にして静岡県に入ります。静岡県は一応、僕の住む愛知県の「隣県」なので、静岡という名前を聞くとちょっとホッとします。天気は午後になって曇り空。そしてここからは長い長〜い下り坂です。
前半の急な上り坂に比べれば歩くのは楽なんですが、しかし後半は疲れも出てきている上に、単調な下り坂というのも結構それはそれでつらいものです。もし今回とは逆に西側から江戸に向かってこの箱根の西坂を歩いたとしたら、傾斜は東坂ほどではないけれどこのだらだらと長い上り坂は本当に苦しいだろうなぁと思いました。実際にその通りで、この辺りの西坂は「こわめし坂」と呼ばれていたそうです。あまりの長坂に、背中に背負ったにぎり飯が汗と熱で「こわめし」になってしまうからという言い伝えからという話。本当に東からのアクセスで良かった…。
豊臣秀吉の小田原攻めで落城した山中城跡を過ぎると、芭蕉の句碑が大きく道端に見えます。「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」。きちんと係り結ばれていますね…。芭蕉はあれだけ多くの俳句を詠みながら、実は富士山を詠んだ句はほとんどありません。それは芭蕉が「もともと美しいもの」を詠むのが逆に難しいということを知っていたからなのでしょう。どんなに上手に詠んでも本物の富士を越えられないですから。でもこの句は「見えない」と詠むことによって逆に「見える」日の富士山が美しく脳裏に映ってきますから、やはり芭蕉はただ者ではないですね。
ちなみに僕の歩いたこの日は曇り空の中にうっすらと富士の山頂が浮かんでいるくらいでした。青空に「はっきりと見える」富士もきっと美しいでしょうし、芭蕉が詠んだように「あるのに見えない」富士も趣がありますが、「ぼんやりと浮かぶ」富士もそれはそれで荘厳です。結局どんな状態でも富士山はキレイなんですね。やはり日本一の霊峰です。
「くもり空 浮かんだ富士も 面白し」と僕も詠んでおきます。いつか将来、僕の一句も誰か句碑にしてほしいです。
日も暮れ始めた5時30頃、ようやく下界に下りてきました。三島宿の東にある初音ケ原の松並木。ここも石畳にしてあって、やはり風情があるのは認めるし往事を偲ぶこともできるのですが、とにかく歩きづらいです。ウォーキングも最後に差しかかって疲れもピークになっていたし、最後の踏ん張りどころでした。
三島市街の町が見えてきたのは午後6時過ぎ。すでに暗くなっていて、旧東海道の下り坂から見下ろす三島の街灯りは絶景でした。町中をゆったりと歩いて、ようやく三島駅へ。伊豆国一宮である三嶋大社はお花見の真っ盛りで、もうこの時間帯には電飾も灯っていて、思いがけずも夜桜まで楽しめました。旧東海道の交差点に手を洗うための井戸(つるべ落とし)のモニュメントがあり、旅人(僕です!)が前に立つと赤外線で察知し水を流してくれました。旅の最後にさっぱりと手を洗い、三嶋駅前で一杯飲んで今回の箱根越えの旅を無事に終えました。
馬でも越せる箱根八里、同じ哺乳類として僕も越えることはできましたが、あらためて「馬」に敬意を抱いたウォーキングではありました。ついでに言えば、後日の車による実測では「八里」ではなく「九里」あったんですけど…。正確な「箱根」の領域を僕がとらえ違えているのかな!?
次回は再び平坦な旧東海道を西進し、次の難所、薩?峠へ近付きます。今度こそはやっぱり富士山の見える日に歩きたいなぁ…。