第130回 吉原(静岡県富士市)→清水(静岡県静岡市)

平成24年7月6日 曇り一時雨 33.5㎞ 8時間50分

蒲原昼之雨

 今回のコースは東海道の中でもっとも富士山がもっとも近くに見える部分になります。広重の「東海道五十三次」の中でもこの辺りの富士山が一番大きく描かれているようです。ということでこのコースを歩くのは絶対に晴れた日がいいなぁ、と思っていたのですが、あいにくの曇り空。しかも夕方くらいからは大雨になるとの予報だったので、始発から2本目の電車で吉原に向かい、サッサと歩き出すことになりました。本来なら富士の裾野の素晴らしい景色が見えるはずなのですが、曇っているために富士山は「裾」の部分しか見えず、こんな感じの風景になりました。

          

 まずはこの裾野部分を弧を描くように進んでいきます。吉原宿に向かう辺りの東海道はこれまでの西進していたコースとは異なって急に北上し始めます。そのせいで吉原は、京に向かうときに左手に富士山が見える東海道「左富士」のうちの1カ所になっています。2カ所しかない「左富士」の1カ所ですから(もう1カ所は南湖左富士、第127回の旅日記参照)非常にレアな場所なのですが、こちらの「吉原左富士」はいわば「作られた左富士」です。

 もともとどうして急に街道が北上し始めるかということを考える必要があります。その昔、吉原宿は東隣の原宿や西隣の蒲原宿と同じく太平洋沿いに位置していました。最初に宿場があった辺りを元吉原と言います。しかし、大地震による津波で宿場は崩壊。その結果当然のごとく新しい宿場はもとの場所より北に新設されました。ここを中吉原と言います。しかしその後またしても津波が到来。でその結果、さらにさらに宿場は北に設置され、現在の吉原宿に落ち着いたのでした。それに伴って東海道の進路は急激に北へ曲がり、現在のような「吉原左富士」が誕生したというわけです。

 左富士がもっともよく見える所には「左富士の碑」が立ち、一本の松が残っています(写真左)。しかし残念ながら(というか最初から予測できたことではありますが)今日は左富士どころか富士山すら見えませんでした。ということでこの場所にあった広重の絵のレリーフ(写真右)で我慢することにしました。またいつかここへ見に来ようと思い、歩を進めました。

      

 吉原宿はまだ8時前ということもあってか人の姿は少なく、アッという間に西木戸へ。次の蒲原宿へは相当の距離があるので、ここからは心して西へ向かっていきます。眼前に山が迫ってくると、目の前がパッと開けて急流富士川が横たわっています。街道一の急流と言われる富士川は、この日も大きな轟音を立てて流れていました。街道沿いの街が変わっていく中で、おそらくこの富士川の急流だけは昔と変わらない姿を見せているのでしょう。現在は誰もいない渡船場に誰かがいるような気がしました。

 渡船がないので仕方なく(!?)僕は富士川橋を渡ります。手すりには富士山の形が刻まれていて(写真右)、この富士川を背景にこの富士山を撮っておきました。本来ならこの後ろに本物の富士山がものすごい雄大な姿を見せてくれているはずなのですが…。 

      

 富士川を渡ると東海道は河岸段丘を急坂で上り、間の宿である岩淵へ。富士川を見下ろす秘境のような宿場で、雰囲気としては鹿児島の知覧の忍者屋敷を思い出させるようなものでした。道は一本しかなく、旧東海道らしくところどころで曲がっていて、道の両脇にはかつての一里塚がそのまま残っている(写真右)。国道や県道は河岸段丘下を走っていますからここは地元民しかいない。久しぶりに「旧東海道だなぁ」というゆったりした気持ちでしばしの宿場ウォーキングを楽しめました。道端に座っている地元の方々も気軽に挨拶してくれたり、道を教えてくれたり、気持ちよかったです。

      

 岩淵の宿場を過ぎると道は山の中で東名高速道路と交差しあいながらだんだんと寂しい所へ入っていきます。本当に東海道なのかなぁ、と不安を抱えながら歩いていると、「蒲原へ○町」という看板があり、とりあえず道から外れてはいないんだということに安心します。でも何だか盗賊に出会いそう…。

               

 何とか無事に蒲原宿が見えてきました。今度は急坂で河岸段丘を下りていき、古い街並みが続く蒲原宿に到着。広重画では何かと話題が多い「蒲原夜之雪」(写真左)で有名な所です。僕も実際にここに来るまでは、蒲原といえばシンシンと降り積もる雪に覆われた静かなイメージを持っていました。いや、静かなイメージは間違っていなかったのですが、残念ながらシンシンと雪が積もっているということはありませんでした…。ま、夏だしね、と思いましたが、現実には冬でも広重画のような風景はまずあり得ないそうです。そりゃそうだよ、太平洋沿いだもん。広重さんはどうやら新潟県の「蒲原」と間違えて描いたらしいです(諸説ありますが)。広重さんはちゃんと実際に来て描いたものだと思っていましたがそうでもないんですね…。

        

 道沿いの茶店で道行く人を眺めながらちょっと腰を下ろし、次の由比宿へ。蒲原宿からは歩いても30分くらいです。由比は桜エビの水揚げが日本でダントツの1位の町。町自体も太平洋にもっとも近付く所に位置し、地形としては以前に歩いた親不知子不知(第109回の旅日記参照)と似ています。ちなみに由比は「太平洋の親不知」とも呼ばれているそうです。日本海側の親不知が「北アルプスが日本海に落ち込む所」ならばこちらは「南アルプスが太平洋に落ち込む所」です。約20回かけて僕のウォーキングも日本の背骨を縦断してきたんですね。

 親不知同様、この由比宿と次の興津宿との間には薩埵(さった)峠が立ちはだかっています。現在は峠と太平洋との狭い間に国道1号線・JR東海道本線・東名高速道路の3本が走っていますが、その昔は旅人はすべて峠越え。もちろん僕も旅人ですから、国道から離れて峠道へ進みます。眼前に峠が迫ってきていることが景色からも分かります(下の写真)。日本海側の親不知の手前の「泊」もそうでしたが、何だか山が迫ってきて「行き止まり」になりそうな感じがしますよね。

          

 でもここで一息。時間も12時近くなってきたし、せっかく桜エビの産地でもあるし、峠へ向かう直前にある小さなお店(写真左)に入りました。ここは今から12年前、社会人になって最初の職場で同じ英語科の先生方と食事に来たお店です。太平洋の絶景を眺めながら桜エビのかき揚げ定食(写真右)をお腹にいれました。

        

 お腹を一杯にしてさぁ薩埵峠へ。登り口に立つと、その急坂具合(写真左)に一瞬尻込みします。でも2回ほど前のウォーキングであの箱根峠を越えてきたことを自信に、急坂を上り始めました。距離自体は高々2㎞弱なのでそのぶん角度のきつい急坂なのですが、10分ほどでさっきまで同じ高さで見ていた太平洋と国道・高速道路がはるか眼下に見えてきます(写真右)。しかし道自体はさすがに山道(写真真ん中)。後日に車で距離計測する時に果たして離合できるのか、などと不安を覚えながら上っていくと…!

        

 峠からの眺めは絶景!!のはずが、これまた予測していたことですが、絵の中心となるべき富士山がまったく見えませんでした(写真左)。仕方なく峠の展望台にあった「晴れた日に見えるはずの絶景」の絵を写真に収めておきました(写真右)。ここもまた晴れた日に訪ね直します…。

        

 峠から下りる方の興津側の道は、角度こそ急であるものの道幅は広く、安心して歩くことができました。さっきまではるか眼下にあった高速道路がものの10分も経たないうちに同じ高さに来てしまうのですから、やはり何だか不思議です。ほどなく興津東町に出て、清流で有名な興津川を渡って興津の宿場へ。それにしてもやっぱり富士山から流れ出すこの辺りの川はどれもきれいですね。

 興津宿に入った頃から曇り空の合間から陽が差し始め、そしてなんと同時に雨粒が落ち始めてきました。本来なら無事に薩埵峠を越え、興津駅でめでたくゴールを迎えるのですが、興津は約12年前の第28回の旅でゴール地点としているため、「御油の自宅以外は、一度ゴールとした駅またはバス停は二度とゴールにはできない」というマイルールのため、興津駅をゴールとすることはできず、今回はまだまだ先に進まなければなりません。それなのに雨が降り出すとは…。

 しかし雨もまだしばらくは小降りのままで、次の清水(かつての江尻宿)にたどり着くまでは何とか傘を使わずに歩けるくらいで保っていてくれました。そして清水駅まであと2㎞を切った広いきれいな橋の上が、記念すべき通算3000㎞ポストになりました。歩きも歩いたなぁ。北海道から沖縄までが直線で約3000㎞だと聞いたことがありますからねぇ。

 清水駅に到着した3時過ぎ。待っていたかのように雨粒が大きく激しくなり、本降りになりました。この日は七夕前夜。日本でも有数の七夕祭りが行われる清水駅にはたくさんの屋台が立っていたので、その祭りを楽しみにしていた方々には申し訳ないのですが、僕のウォーキングはギリギリ雨には襲われずにすみました。早めに歩き始めて大正解でした。

 山あり、川あり、段丘あり、海あり、峠あり、内容の詰まった今回のウォーキングは久しぶりに充実感でいっぱいでした。次回は駿河路をさらに西進します。いったん海とはお別れです。



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