第134回 浜松(静岡県浜松市)→豊橋(愛知県豊橋市)
平成24年12月21日 晴れのち曇り 39.7q 10時間50分
一人では遵守できない注意書き
東海道の旅も中間地点の袋井を前回通り過ぎ、ここからはいよいよ西半分になります。そして僕の故郷三河地方ももう目の前。今回はやはり始発で浜松駅に降り立ち、コートに身をくるんで朝6時50分歩き始め。まだ朝早く当然開店前の国道沿いのかっぱ寿司さんの前が、スタートからの3100qポストになりました。
国道に沿って西進すると次は舞阪宿。しかしこの区間は景色も単調な上に結構距離が長い…。浜松宿は東隣の見附宿へも約16q、西隣の舞阪宿へも約11qと、どちらの宿場へもかなりの距離があるのですね。大きな難所もない平坦な土地だからでしょうか!? ふと道の右を見ると「ここから東 浜松領」と書かれた領界石がポツンと立っていました。舞阪宿はもうすぐです。
国道から右へ旧道が分かれ、いよいよ目の前に舞阪の松並木が見えてきます。しばらく進むと「篠原東」バス停。今から9年前の第76回ウォーキングでゴールとしたバス停です。懐かしい。この時はずっと東進してきてこのバス停にたどり着きここから浜松ではなく御前崎の方に折れていったので、逆にたどっている今回はここから先しばらく二度目の風景を楽しむこととなります。
前回の時は無かったと思いますが、松並木の足下に十二支のモニュメントが作られていました。ネズミからイノシシまで、それぞれの動物の表す時刻と方角が刻まれた石が一定間隔ごとに並び、僕は来年の干支にちなんでヘビの石を写真に撮ってきました。
松並木が終わると国道1号線を横切って今切(いまぎれ)の渡しへ。ここは15世紀まで陸地としてつながっていた場所で、15世紀末の大地震で陸地が裂け(この表現あっているのでしょうか!?)淡水であった浜名湖が太平洋とつながってしまった場所です。もともと「淡水の海」→「淡海(あわうみ)」→「近江(おうみ)」となり、これが琵琶湖を擁する滋賀県の地名の由来。そして「同じく淡水湖を抱える京都から遠い方」から、静岡県西部は「遠江」となったわけですから、淡水でなくなった今、この地名は何だか歴史の長さを感じますね。
ところで一言で「地震により海とつながった」と言いますが、これメチャクチャ大きな事件ですよね。いや、「事件」なんてものじゃないですよ。想像してください。もし現在、地震により琵琶湖と日本海がつながったら…。滋賀県民と福井県民の生活は尋常じゃないことになりますよね。こんな大事件がそれほど遠くない安土桃山時代に起こったなんて、考えただけでもビックリします。地殻変動なんて大体何百万年も前のものだというイメージありますから…。
現在はその今切の渡しさえも渡し舟が廃止され、渡し跡の北雁木だけが残されています(写真左)。そして海中に立つ弁天島の赤鳥居(写真右)。厳島神社を見たことがない人にとっては、これで充分…とまではいきませんが、一度この光景を見ると結構脳裏に残る風景です。まだ僕が小学校入学前、よく父に連れられてこの辺りに釣りに来たのですが、子供心に昔見たこの光景、まったく風化されずに僕の心にも残っています。
清水(江尻宿)以来、久しぶりに出会った太平洋。浜名湖もこの辺りでは太平洋に注ぐ大河のように波打っています。渡しを(もちろん橋で)渡りきると、新居町の駅。そして新居の関所跡。ここは以前も探索したので今回はス〜〜っと通過させていただきました。特に手形を求められることもありませんでした。
新居の街並みを抜けると道端にちょっとした出店が…。「名物たい焼き」という幟に導かれて「スペシャルたい焼き」を1つ道端でほおばりました。寒い季節なので余計においしい!! ここのたい焼きは「こしあん」なので僕でもおいしく食べられます。後日車で距離測定に来るのが楽しみになりました。ちなみに「スペシャル」はこしあんとチーズが入ったトロ〜ンとした口どけで、160円です。
しばし田畑の中をトボトボと歩き続けると、潮見坂に差しかかります。この辺りは元来白須賀宿があった所なのですが、宝永の大津波により壊滅してしまったため現在では潮見坂の上に宿場が移っているそうです。いつの時代にも同じようなことは何度でも起きるのですね。以前に通った吉原宿もそうでした。「歴史は繰り返す」。教訓は生かしましょう!
ちょうど道路脇で電気工事をしていたのですが、道端の注意書きを見ると…(下の写真)。「頭上注意」と「足下注意」、同時にはできないですよね!? 一人旅の人間にメチャクチャな要求をしないでもらいたいものです。そこで交通整理をしていた方に「ツっこんで」みようかと思いましたが、何だか機嫌が悪そうだったのでやめておきました。
潮見坂はその名の通り、遠州灘を望める坂。下から見ると「本当に上って行けるのか!?」と不安になってしまうような坂ですが(写真左)、上りきって太平洋を見下ろすとここが「潮見坂」と名付けられた理由が分かります(写真中)。ちなみに広重の描いた潮見坂からの眺望とほとんど変わりませんよね(写真右)。数百年前の旅人とまったく同じ風景を体験できる東海道の数少ない名所の一つです。
坂の上からは眼下を通る国道1号線を走るトラックの轟音が聞こえてきますが、その轟音もBGMに聞こえてしまうくらいにここは現代から取り残された旧東海道の一角です。白須賀中学校を過ぎてもまだまだ昔ながらの街並みが続き、愛知県境直前で国道1号線と合流するまでゆっくりと往時の旅人気分が楽しめます。さっき坂を上っていた頃は日差しが暑く感じたのに、いつの間にか曇ってきて、再びコートを着る天気になってきました。
そしていよいよ静岡県から愛知県へ。第95回の旅で木曽川を越えて愛知県祖父江町から岐阜県羽島市に入って以来、約8年ぶりに愛知県に戻ってきました。懐かしい三河の地です(写真左)。ずっと旧東海道を歩いてきて、相模国と伊豆国との境は箱根山が横たわり、駿河国と遠江国の境は大井川が流れていましたが、この遠江国と三河国との国境を流れる境川はこんなに小さな川です(写真右)。ま、小さい分だけきちんと「境川」という名前を付けて「境」だということを強調するのでしょうね。ちなみにこの後やってくるはずの三河国と尾張国と境も小さな小さな川で、やはり「境川」と名付けられています。
しばらくは国道1号線をトラックの巻き起こす不快な風を身に受けながらトボトボと歩きます。周囲は一面のキャベツ畑。しかし、前回歩いた茶畑がミカン畑に変わり、そしてキャベツ畑に変わったことで「あぁ本当に西へ向かって愛知県に戻ってきたんだなぁ」と実感します。車での旅ではなかなか感じられない地域感覚です。
歩き続けること約1時間、再び東海道は国道1号線から離れ、二川の宿場が近付きます。ここでいったん昼食タイム。行きつけのオムライス屋さんへ入りましたが、歩いてくるのはもちろん初めてのこと。空腹にオムライスとサラダとスープをしっかり流し込みました。
二川は立派な本陣が残る宿場です。現在でも道路の拡充が行われてはおらず、本陣には資料館が併設され見所はいっぱい。今回は写真に収めてきただけですが、ここの資料館は地元ということもあり何度も訪れています。というより僕が「旧東海道」というものに興味を持ち始めたのはここが始まりと言ってもいいでしょう。
二川を過ぎると再び上り坂へ。ここは火打坂です。地名の由来は、昔この辺りで火起こしに使う石がたくさん採れたとか。本当かどうかは分かりませんが、すぐ隣に「豊橋地下資源館」もあるし、岩屋観音がある山自体もゴツゴツして何だか鉱物資源が採れそうな気がしますから(あくまでも憶測です)、あながち間違いでもないかもしれませんね。
上りきると道は左へ。しばらくは県道を歩くことになりますが、殿田橋で再び国道1号線に合流。やはり国道ウォーキングはあまり気分のいいものではありません。しかもこの辺は超地元でしょっちゅう車で走っていますから特に目新しい物もなく、アッという間に豊橋の市街地へ。道はいったんクネクネと曲がり、市電の札木(ふだぎ)駅へ。ここが吉田宿の中心だったらしいです。…がやはり高校生時代にいつも当時の彼女とウロウロしていた場所だし、路面電車も豊川市民としては特に珍しくもなく、サッサと豊橋駅に到着してしまいました。でもそう言えばクリスマスの季節に豊橋駅前をウロウロするのは久しぶりだな。まだイルミネーションとかやってたんですね。
自宅がある御油まではあと一歩届かず、今回は豊橋止まりとなりました。次回は御油を通り抜けて西三河へと向かう予定です。