第137回 弥富(愛知県弥富市)→井田川(三重県亀山市)

平成25年3月15日 晴れ 42.1q 10時間40分

首を長〜くして待っていた!

 前回の極寒のウォーキングから約1ヶ月余りしか経っていませんが、この1ヶ月の差は非常に大きい。コートはまだまだ手放せませんが、今回は春の日差しにより顔を激しく日焼けしてしまう結果となりました。

 出発地の弥富は愛知県の西端の都市です。駅はさらに西の端にあり、駅から10分も歩くとすぐに三重県との県境、尾張大橋に差しかかります。木曽川を渡りきると、ここからは三重県。桑名市に入ります。第134回の旅で豊橋市に入って以来の地元愛知県ともこれでお別れ。そしてよくよく見てみると、三重県に入るのは本当に久しぶりです。

          

 木曽川を渡った長島町は「なばなの里」や「スパランド」で有名だった街ですが、この国道1号線沿いの長島町は非常に静かです。この後すぐに渡ることになる長良川・揖斐川との間にある輪中の地なので、標高も非常に低く、水田の広がるとてものどかな田園風景です。でも洪水に備えてとても苦労されている地域なのでしょうね。

 木曽三川のうちの残る2本である長良川と揖斐川は、河口付近であるこの地域ではほぼ併走しています。橋も伊勢大橋という1本の橋にまとめられていて渡りきるのにも30分近くかかります。右手には上流風景と、その向こうにまだ雪を残したままの養老山脈が横たわっています。

     

 いよいよ揖斐川を渡りきると桑名の中心部に入ります。この橋から南へ進んだ所が桑名側の七里の渡し口。今は大きな防波堤が築かれていて、あまり「渡し場」としての風景は残っていません(下の写真左)。しかし宮側の渡し口と同じように往時の雰囲気を偲ぶにはそれで充分。時折通りかかる老人と犬(もちろん散歩中)が、時の流れをさらに実感させてくれます。しばらく離れていた旧東海道も再び復活し、久しぶりに「東海道」の案内を目にしました(下の写真右)。またここから京に向けて東海道をたどります。

      

 通り沿いには桑名城。…があったらしいのですが、現在は城壁しか残っていません。その城壁も街の風景の中に紛れ込んでしまい、残念ながら桑名城を偲ぶ事はほとんどできませんでした。しかし現在は東海道五十三次を模した公園になっており、お堀も船泊になっているので、別の意味でゆっくりとくつろげるようにはなっているかもしれません。下の写真の公園の向こう側にチラッとお堀の石垣が見えるでしょうか。

          

 桑名宿の東海道沿いには他にも見るべき物が道々に残されて、あるいは復元されています。交差点に復元された火の見櫓(下の写真左)、力比べや足腰を鍛えるために使われた力石(写真中央)はその横に子供用の軽い物まで残されています。さらには街道に1本だけ残された松(下の写真右)は江戸時代から「変わらず」に旅人達を見守り続けていることと、この地域が「川原津(かわらづ)」と呼ばれていることから、「かわらづの松」として今も旅人を見つめています。

      

 難点は城下町らしく道が曲がりくねっているということ。しかも現在はその曲がり角の間も整備されてしまってまっすぐにつながってしまっているので、余計に旧東海道をたどるのが難しくなっています。しかし各町内が、あるいは各家々が手作りの案内板を設置してくれているので、しっかりと注意して歩いていれば見落とすことはないはずです。

               

 三滝橋を渡るとようやく四日市宿に入ります。交通量の多い国道1号線から1本はずれた旧街道は、きれいに整備されているものの往時の空気も残っており、「なが餅」で有名な老舗「笹井屋」も道端に軒を並べています。座って食べる席がなかったので、ウォーキング中でもあり残念ながら口にはできませんでしたが、また距離測定の際に立ち寄ろうと思います。

 四日市の宿場は駅前のアーケード街を貫いています(下の写真左)。旧東海道でアーケード街になっている所は他には記憶にないです。四日市はろくろ首で有名(!?)な町でもあるらしく、アーケード街の中にも大きな人形が設置されており、電動で首が伸び縮みするようになっていました(下の写真中央)。民話の中に登場する大入道(ろくろ首)がモデルになっているようです。町のあちこちの個人商店でもろくろ首が首を長くして(笑)出迎えていました(下の写真右)。

      

 アーケード街から続いて旧東海道はさらに南へ伸びていきます。四日市の次の宿場はまだまだかなり先。当初は亀山宿まで宿場がありませんでしたが、その距離があまりに長すぎるということで、途中に石薬師宿・庄野宿という2宿が設置されました。それでも四日市から石薬師宿までは10qほどあります。

 日永の追分で旧東海道は伊勢神宮への伊勢街道と分岐します。近鉄内部線と並びながら、東海道は久しぶりの急坂となる杖突坂に差しかかります。距離は短いですが、ここは古来、日本武尊(やまとたけるのみこと)が戦いからの帰り道に通りかかり、あまりの疲労に刀剣を杖にして登ったという伝説に基づいて付けられた坂です。すぐ右手の眼下を国道1号線が走っているとは思えない静けさで、数少ない民家も生活感が漂っていて、夕刻の一時、しばし立ち止まってしまいました。

               

 再び国道1号線との合流を繰り返しながら、スタートからの3250qポストを過ぎ、旧街道はやっとのことで石薬師宿へ入ります。もともと石薬師寺を中心とした小さな集落だったので、宿場としては小さなものです。歌人である佐々木信綱の記念館があり、道々に信綱の歌がいろはカルタ風に刻まれていて、それを読み進めるだけでも結構楽しめます。

 街道はJRと国道の間の田園を走り抜ける小径(下の写真左)となり、西陽を正面から浴びながらアッという間に庄野宿へ。ここも非常に情緒のある宿場ですが、すでに夕方の5時をまわっていたので民俗資料館も閉まってしまっていて残念でした。この庄野宿は、広重画では「白雨(はくう)」として描かれています。白雨とは「にわか雨」のことです。この広重画は、蒲原宿の「夜の雪」と並んで五十三次の中でも名画の一つと言われる絵で、街道沿いに建てられている絵だけでもその空気を感じることができます(下の写真右)。今日は残念ながら雨は降っていませんでしたが…。ちなみに奥に見えるのは西陽を浴びている庄野宿資料館です。

       

 安楽川を渡る和泉橋に差しかかった頃はもう6時前。暗闇も迫ってきて、この眺めは都市部から離れて鈴鹿峠が迫ってきていることを予感させます。ここは今から14年前の第12回のウォーキングで、雪のちらつく中を逆向きに渡った思い出があります。あの時は何だか小さな橋だったような気がしましたが、今回久しぶりに見てみると意外にしっかりとした橋でした。架け替えられたのかなと思って欄干を見てみましたが、すでに20年以上経ったものだったので、記憶というものは曖昧なものだなぁと実感しなおしました。空にわずかに残る西陽が旅の終わりを予感させます。

     

 JR関西線の中心駅である亀山駅まではあと1駅。徒歩だとおそらく1時間くらいだと思われます。しかし、暗くなってきているし、道も下見をしたわけではないし、今回は1駅前の井田川駅で終了しようということになりました。すでに薄暗い井田川駅は田園の真ん中にあり、そのともり始めた灯りが何とも幻想的でした。

     

 次回は東海道最後の難所、鈴鹿峠を越えて近江の国に入ります。いよいよ京都が見え始めてきます。


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