第140回 草津(滋賀県草津市)→三条大橋(京都府京都市)
平成25年7月5日 曇り一時晴れ 25.9q 6時間30分
水に映るは「じぇじぇ」の城!
1年半前に始まった「東海道五十三次の旅」もこれで最終章。52番目の宿場である草津宿から残りの2区間を歩いて三条大橋までたどりつく予定です。距離にして約25q程度のはずです。7月としてはやや長い距離なので、あまりに暑いとちょっとつらいなぁと思っていましたが、この日は長雨のあけたばかりの曇り空スタート。いい日に当たったなぁ…。草津駅前の宿場の碑もまだ雨にそぼ濡れていました。
草津宿から歩くこと10分。東京日本橋から別々のコースを進んできた東海道と中山道は、ここ草津の天井川下で合流して京都へ向かいます。昔はこの天井川を歩いて渡ったそうですが、明治時代にトンネルができて合流点はそのトンネルの出口に立てられました。右の写真は京都側から見た様子で、左のトンネルをくぐると中山道で江戸へ、右へ折れると東海道で江戸へ向かうことになります。
僕はもちろんここから京都の方、つまり写真でいうと後方へ進んでいきます。草津宿本陣の街並みは早朝のためまだ眠っており、かつて「うばがもちや」があった道辻も静寂の中にありました。この辻は安藤広重が描いた「草津」画の場所で、舟で琵琶湖を渡って大津宿へ向かう「矢橋(やばせ)道」との分岐点となっています。地図を見ると確かに旧東海道は琵琶湖の南岸を迂回するように大回りをしています。琵琶湖を横断する矢橋道は距離的にはかなり近道になるはずです。現在は近江大橋が架けられ歩いても渡ろうと思えば渡れるのですが、今回の僕の旅はもちろん「旧東海道」を進む旅なので、大回りしてでも旧東海道を忠実にたどることにしました。
瀬田あたりで学生達の通学時間となり、挨拶してくれる小学生や交通当番の保護者の方々の合間を縫うように先へ進みます。挨拶はしてくれるものの、きっと保護者の方々は平日の昼間にウロウロと歩いている僕のような中年を見て内心はハラハラしているでしょうね。大丈夫ですよ、変質者ではありませんよ、小学生を襲ったりしませんよ、ということをアピールするためにも、なるべく笑顔で僕の方も挨拶を返すことにしています。でもあまりニヤニヤしていると逆に気味が悪いかな。ウォーキングするのもなかなか考え過ぎちゃって大変です…。
琵琶湖に流れ込む川は大小たくさんあるものの、琵琶湖から流れ出る川は1本しかありません。下流では淀川となって大阪湾に注ぐことになる瀬田川。この瀬田川にはかつて架橋が1カ所しか許されておらず、それが旧東海道に架かる瀬田の唐橋(からはし)。瀬田夕照で有名なこの橋はぜひ夕刻に渡りたいもの。しかし残念ながらこの橋を夕方に渡っているようだとその日のうちに京都に到着できないので、今回は朝方に渡ることになりました。北を眺めるとその先には琵琶湖の南端。あぁ近江にやって来たなぁと実感します。
この唐橋は現在は渋滞スポットとして有名ですが、歴史の上では幾度となく事件の舞台となってきました。琵琶湖を渡らないとすれば、京都へ向かうにはこの唐橋を渡るしかなく、古くは壬申の乱から「唐橋を制する者は天下を制する」と言われました。橋はもちろん何回か架け替えられていますが、欄干の擬宝珠は今でも残り、近畿地方の風情を伝えています。
橋を渡りきると道は右へ折れ、京阪石山駅を通ります。ここから旧東海道は琵琶湖沿いにぐるっと回り、大津宿へ向かいます。その間にある膳所(ぜぜ)の街並みは東海道五十三次の宿場町に負けないくらいの雰囲気のあるもの。東海道から1本はずれて琵琶湖沿岸に出ると湖面に映るは膳所の城。水城(みずじろ)と言われた膳所の城は、その琵琶湖とマッチした景観に思わず「膳所(ぜぜ)!」いや「じぇじぇ!」と驚いてしまいます。
大津宿に到着したところから今回のウォーキングも後半へ。そして53番目の宿から京都三条大橋への最後の一区間が始まります。雨上がりの曇り空から太陽が見え始め、帽子とタオルが活躍する時間帯となってきました。水分をしっかりと補給して、大津宿の名所である義仲寺を訪ねてみました。
義仲寺は、中山道の宮ノ越で旗揚げした木曽義仲(源義仲、古文では「木曽殿」)が眠る寺です。琵琶湖南岸の粟津で果てたと文献にもありますが、僕がわざわざこの寺を訪ねたのは義仲が眠っているからではなく、その隣に芭蕉が眠っているからです。このコーナーの巻頭にも書いたとおり僕の旅は芭蕉にあこがれて始めたものですから、ここは絶対に参拝しておかなくてはなりません。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」。もちろん亡くなっていた芭蕉がこんな句を詠めたはずはなく、これは後年に義仲寺を訪れた芭蕉の弟子の作です。
大津は路面電車が残る街。しかもこの路面電車は純粋に路面だけを走る路線ではなく、実は京阪電鉄の路線で途中から道路の外に出ていきます。当然その場面では電車が道路の片側を横切って出ていくことになり、交通量の多いこの国道では危険なのではないのかなぁと危惧していたのですが、運良くウォーキング中にそのような場面に出会うことができました。下の左側の写真、電車が道路の片側を渡っているのが分かりますよね。その場所を反対側から見ると、ちゃんと片側だけ踏切が設置されているのでした(写真右)。つまり通過中は、一方へ向かう車のみ踏切で遮断されるというわけです。一方の車は止められているのに、もう一方の車は普通に走っている。何か滑稽でした。
いよいよ最後の難関、逢坂山が迫ってきました。右手には「これやこの〜知るも知らぬも逢坂の関」で知られる蝉丸神社(写真左)。そして眼前には山が迫り、国道1号線は狭い区間を京阪電鉄(さっきまでの路面電車)と併走します(写真右)。京都へ入る最後の関門です。京阪電鉄は関西私鉄5社(阪神・阪急・南海・近鉄・京阪)の1つで、5社の中で唯一プロ野球球団を1度も持ったことがない電鉄会社です。滋賀県にまで足を伸ばしていることで経営は大変なのかも知れませんが、大津方面に伸びる鉄道は地域の方々の大切な足になっていることは間違いありませんから、これからも頑張り続けてほしいです。今回のウォーキングの帰り道に僕も初めて利用しました。
逢坂山を越えると京都東インターが近付いてきて、いよいよ滋賀県ともお別れです。ここは山科追分。何と何の「追分」なんだろうと思っていましたが、ここは京都三条大橋へ向かう「東海道五十三次」と、京都を通らずに大阪へ向かう「東海道五十七次」との分岐みたいです。江戸時代の参勤交代などでは、大名は京都を通って天皇と接触することを禁止されていましたから、当然「京都を通らない」東海道が必要になってきますよね。その分岐がここみたいです。現在では追分駅を越えて山科の街並みに入った辺りに三叉路分岐が存在しています。今回はとりあえず通常の「五十三次」の方へ進み、ほどなく京都市へ。ここから山城国です。
山科の駅を越えるとJR東海道本線でも次の駅はもう京都駅。東海道の終点もあと4q、徒歩1時間くらいです。眼前には最後の1山が立ち、坂道を上がって蹴上(けあげ)へ向かいます。最後の山ですが結構急な山で、温存してきた体力もかなり消耗してきました。国道1号線ではなくこちらから入京するコースは、車で京都に入る時でも僕の好きなコースです。「御陵(みささぎ)」とか「蹴上(けあげ)」とか、いかにも「京都に来たなぁ」って地名ですよね。あっ「山科(やましな)」って地名もそうだ。
坂を上りきって蹴上まで来ると、頭上に「→三条大橋」の標識が(写真左)。ついに来ました。東海道の終着地。蹴上から三条大橋までの2qは下り坂だし、アッという間にたどり着きました。やっぱり京都に入ると外国人観光客が多いですね。瀬田の唐橋と同じ擬宝珠が、江戸日本橋からやって来た旅人(僕です)を優しく出迎えてくれました(写真右)。
日本橋からずっとたどってきた東海道の様々な景色や出会った人々を思い浮かべながら、ちょっと寂しく京阪三条駅から帰途につきました。距離も文化も離れた街々が「旧東海道」というキーワードでつながり、一緒に「東海道ルネサンス」運動で盛り上げようとしていることに、何だか不思議な感じを覚えました。
次回からはさらにもう少し西へ向かってみようと思います。かつて元ちとせさんが「いい日旅立ち・西へ」というJR西日本のテーマ曲を歌っていましたが、それにちなんで「いい日旅立ち・さらに西へ」と題して、行けるところまで行ってみます。どうぞ引き続き旅日記にお付き合い下さい。